『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』 316ページ
「思い出」東割 山村皎二
 夏休みも残り少ない八月二十七日、いつもと変らぬ朝を迎えた。親父は会社へ、弟達は宿題に取り組んでいる。平穏な朝である。ただ空は少し曇っていた。それは私が過去に経験した通常の曇り空とまったく変ったところはなかった。然し昼過ぎから風が出て来た。午後三時頃だったか、外に出てみると庭の木が盛んにざわついている。どんよりした空を見上げると、黒い雨雲が次々と東から西へと飛ぶように流れて行く。「これはおかしい。嵐にでもなるか。」と一寸心配になる。
 当時は太平洋戦争のさ中で、台風情報なんて全く入って来ない。ただ、各人が独自で現状判断するより外に方法はなかった。風は時を刻むにつれて激しくなって来た。夕方五時頃だと思う。母屋の雨戸はガタガタと大きな音をたて、風は異常なまでに強さを増して来たようだ。ガラス戸のある部屋に行ってみると、庭木の枝は真横になり倒れんばかりである。風が息をする度に、ガラス戸は「くの字」に曲り込んで今にも吹き倒されそうである。
 思わず両手で突っぱって見る。眼を転じると前の納屋のわら屋根が風にあおられて、バラバラに引き裂かれ舞い上って行くのが見える。「ああ、これが台風か。」と初めて気がつく。七時頃川の様子を見に堤防に上がる。堤防の上は猛烈な風で吹き飛ばされそうで立っていることは出来ない。日頃はやさしい川水も荒れ狂う大波となって堤防の上部をたたきつけている。これは危ない。わたしは転ぶように堤防を駆け下り、家へと走り込んだ。「とにかく御飯だけは食べよう。」とローソクの明かりを頼りに夕食をすませたが、不安は募るばかり。親父は「よもや堤防が切れることはあるまい。」と言う。過去に堤防が切れたと言う話を聞いたこともないし、切れては困る、と言う強い期待感がそういう発言をさせたのだろう。近所の人達もみんなそんな考えであったのだろう。夕方になっても誰も避難する者はなかったようだ。
 わたし達は母屋に集まり、みんなここで寝ようということになった。然し、心配で誰も寝ようとしない。ローソクの光が異様な程に一人一人の顔を浮き上がらせていた。時間は九時頃だ。突然前の方で「バタッ」と大きな音がした。走って行くと玄関の戸が倒され、風と共にどす黒い海水が流れ込んで来た。台所にかけ戻ると床下からは濁流が吹き上げていた。「やはり沖の堤防が切れたか。」家の者は、「水だ、水だ!」と叫ぶばかりで、なす術を知らない。そのうち、水は急速な勢いで増え続け、畳がブカブカと浮き始め、考えている間もなく水は胸のあたりまでなって来た。いつの間にかわたしは小さな妹をつかまえていた。とっさの思いで裏戸をけり破り、杉垣に向かって妹をつき出した。八十五歳の老婆も突き出した。わたしも続いて出た。ここに至って怖いと言う恐怖感は全くなかった。ただ「死んではならない。逃げなくてはいけない。」ということだけがすべてであった。この年の一月に生れたばかりの妹をかかえた母も、雇っていた子守も、弟達も全部で九人、気がついて見ればみんな杉垣につかまっており、どうやら命だけは助かったようだ。然し風は益々強く、水は増え続けている。首だけ出して濁れ水につかっているのでは身体が持たない。幸い杉垣の中に大きな榎があったのでそれに登らせた。みんなずぶ濡れである。
 それから何時間経っただろうか。風は南風に変わり、いくらか弱まって来た。水も減っている様子。急に四歳になった妹が「蛍!蛍がいっぱいいる。」とはしゃぎ始めた。子どもなりにやっと落ち着きを取り戻したのであろう。波が榎にあたって砕けると夜光虫がピカピカ光るからである。危機から脱したと言う安心感がこれによって、みんなの心をやわらげたようだ。緊張からときはなされたのか、濡れた寝まきが冷たく感じる。「朝はまだか。」と妹が言う。その時である。突然「山村さーん。」と叫びながら舟をこいで来る人がいる。わたしはあらん限りの声を出して返事をした。その人は前の大亀さん(二十七歳)であった。舟はだんだん近づいてくる。「おお、これで本当に助かったのだ。」と自分に言い聞かせるように確かめたのである。
 わたし達は堤防に運ばれ、旧橋付近の家で休養をとった。夜が明ける頃には、風もすっかり止んでいた。わたしは半乾きの寝まき姿でぶらりと出て行った。台風のつめ跡はなまなましく、無残な光景は眼を覆わんばかりである。これからの復旧、人々の生活がたいへんだなあー、と一人、堤防に佇んでいる十五歳の少年はそんなことを考えながら、いつまでも動こうとしなかった。
 この手記を終えるにあたり、この五十年間厚南地区の人達は大きな災害を受けることもなく平穏な毎日を過ごして来た。改めて有難いことだと、感謝の気持が湧いてくるのである。
『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』より