『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』 210ページ
「九死に一生の思い」中野開作 為近孝二
 厚南地区風水害より五十年の歳月は夢の如く去り行きましたが、あの当時の苦痛は忘れることができません。丁度大東亜戦争(太平洋戦争)に突入し、一年足らずの八月二十七日。大風の激しさに恐れおののいて寝床に入るや枕が浮き、畳が身体ごと浮き、布団もはがれ去り、起き上がると戸も障子もバタバタとはずれて流れ去った。これは大変だ、土手(堤防)が切れたのだと肝も潰れんばかりにて、幼児三人と大人三人は大慌て。大人が、子供を一人宛抱いて柱につかまって待つこと暫し。たちまち水かさが増え腰のあたりまでになる。背戸(裏)の方を見ると薄明かりの中に藁屋がポカリポカリと流れて上開作の方へ行くのが見えた。このままでは立っておれんと半間中の布団入れを横に倒して踏み台にして、子供三人を天井に押し上げ、大人三人も次々に上がり夜明けを待つことにした。
 夜が明け、家の本体は流されずに九死に一生の思いで家の中を見れば、八畳と六畳の間は、畳も床板も全部流れ出てしまい、長屋と本屋も屋根と柱とそれをつないでいる竹壁のみ残り壁土は七分がた落ちておりました。台所方面の障子・襖・ガラス戸は全部壊れ、折り重なって倒れて残りましたが、捨て物に等しい状態で目も当てられない様。長屋にあった米の入った貯米器さえも流れていて、沖の旦の婦人の方の報せをうけ残っていた車力でいただきに参りました。箪笥や本箱などの家財も宇部駅近くまで流れて行き、やっと本箱だけ取戻しましたが、大部分は行方不明でした。破れがらんどになった我が家は目も当てられぬ情けない有り様。どこから片づけたらよいやら。茫然自失。
 暫くは近所の人々と共に厚南小学校の講堂でお世話になりながら、昼は家の中の片づけに帰り、夜は学校へ泊まる生活が続きました。子供達は家内の里(黒石)へ預けることにしました。六十五歳の父は、あちらこちらと伝(つて)を求めて家の補充の材料を集め修繕の手がかりをつかんでおりました。せめて飛んだ本屋と長屋の棟瓦と四方の尾瓦だけでも一日も速く修理したいと焦りつつ、やっと知り合いの沖の旦の人に来ていただいてセメントと赤土を混ぜたものを瓦とともに塗り付けて結う場を凌ぎました。壁は赤土を手に入れて片壁だけでも自分で塗るより手がない始末。足の踏み場もない家の中を片付けて冬までには何とか寝られるようにせんと、と焦るばかりで埒があかない。戦時中で物資も人手も不足の折りとても事が運びませぬことをご想像下さい。哀れ惨憺、着のみ着のまま。秋は来ても一物も収穫されるものもなく、あちこちの親戚より米を戴きそれで糊口を凌ぎつつ、潮づかりの衣類を洗濯して干したり、板ぎれで家の繕いに明け暮れ、寒くなる頃には長屋の二階に古畳を敷き戸や障子の修繕も出来て、やっと子供らを帰らせることができました。
 殺す神もあれば助ける神もあるものだと思いつつも、どうにか命をつなぎとめて今日に到りました。憶い出はつきませんがオロオロしながらも自分でやれることは自分でやらねば仕様のないあの時でありました。
『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』より