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その日、昭和十七年八月二十七日を、生涯忘れることはできない。 その日は午後から風雨が強くなり、夕方には屋根瓦が飛ぶようになった。しかし、それほど大事に至るとは、家族の者は誰も思っていなかった。夕食は、すでに停電になっていたのでロウソクの明かりで済ませ、早めに蚊帳の中に入った。風の唸り、雨の叩き付ける音の激しさで寝付けなかった。夜勤に出るはずであった父は、強風のため自転車に乗れず、交通機関は完全にストップしたので出勤不可能のため家にいた。夜に入って父は、家と堤防の間を、何度も往復していた。風雨の強さは、今から思えば異状であった。何度目かの堤防への様子見から帰って来た父は、「起きろっ。支度をしろっ。堤防が切れた。逃げるぞっ。」と、怒鳴った。その瞬間、何がどうなって、これからどういう行動を、この暴風雨の中でとるのか咄嗟には理解できなかった。とにかく父の言うことに従い、手をつないで家の外へ出た。強風で足が前へ思うように出ず、ほおを叩く雨粒で目を見開いて暗闇を見通すことがなかなかできない。手を離すと、糸の切れた風船の様に飛ばされそうだ。それでもなんとか役場(現在岸本宅が建っている)前まで来た時、「あれは何か」という父の声で、南の方に視線をやると、暗闇を通して稲の上一尺くらいの高さに白い物がかすかに見えた。次の瞬間、「水だ、引き返せっ」という父の声につられて、琴川橋をめがけて走ろうとした。今度はまともに風に向かって走らねばならず、体が浮き上がるようになるため、うまく前へ進めない。やっとの思いで農協(現在空地)の建物の角にたどり着いたとたん、水が怒涛のごとく打ち寄せて来た。五月に生まれた弟を背負って最後尾にいた母が、波に足元をすくわれて倒れた。皆が手をつないで引き摺った。波と風に連れて行かれそうなところを、全員の力で食い止めた。這うようにして琴川橋たもとの堤防にたどり上がった。助かったという安堵感を味わうというよりも、これからどうするのかという不安感でいっぱいでだった。堤防上を沖の旦めがけて行くことになった。しかし、百メートル行った杉病院の曲がり角で警防団の方にストップをかけられた。そして堤防と同じ高さにある岡本宅に避難させてもらった。 やっと助かった思いが胸の中に広がった。二階へあげて貰った。強風をまともに受けるらしく地震のように家が揺れた。其の後たくさんの家族が避難してきた。眠ることはできなかった。どのくらい後だったか、厚南平野のほうの窓から、流される家の屋根に乗って助けを求めて必死に叫ぶ人を、暗闇の中に発見したが、だれも助けに行ける状況ではなかった。すぐにその人は見えなくなった。家族ごとに身を寄せ合いながら夜が明けるのを待った。非常に長い時間に感じられた。東の空が明るくなるにつれて、強風も嘘のように静まってきた。岩鼻の山の上に太陽が顔を出したころ、岡本宅を出た。堤防の上を自分の家のある方へ急いだ。雲ひとつない晴天、太陽の光が目の中でチカチカした。昨夜のできごとが信じられなかった。 我が家の見える所まで来た。水が軒まで来ていて屋根しか見えない。厚南平野が海である。茫然自失、これからどうなるのか見当もつかない。その時、堤防の竹薮の中から、人を恋しがるような「もーん」という牛の鳴き声がした。我が家の牛である。近寄って顎の下を撫でると鼻を摺り寄せてきた。よくも助かったものである。 腹がへった。飲む水もない。我が家の見える堤防の上にぼんやり座り込む。どの家族も堤防の上をただうろうろしているだけだった。そのうち、父が我が家をめがけて泥水の中を泳ぎはじめた。待つこと二十分くらい。釜を片手で押しながら戻ってきた。中に米が入っている。釜と米櫃が浮いていたので手で掬い入れたという。受け取った母が厚東川の水で研いだ。堤防の防風林の松の枯れ枝を集めた。石でかまどをつくり火をつけた。炊き上がるまで誰もそばを離れなかった。どの顔も物欲しそうな微笑で咽喉を鳴らした。母が手掴みで丸める。それを小さい子供から順に掌に受けて口へ運んだ。茶碗、箸、それにおかずはない。適当に塩がきいていてうまかった。近所の人にもおすそ分けしたようだ。充分ではないが空腹を癒した。昼前頃、救援のおにぎりとタクワンが届いた。とにかく涙が出るほどうれしかった。人の好意のありがたさが身に沁みた。 子供たちは、中野の親戚に預けられることになった。午後三時頃の干潮を利用すれば国道(今の一九〇号線)が何とか通れるだろうということで出発した。国道上は子供の膝上まで水があった。足の裏で道路を確認しながら流川までたどり着いた。山裾の道を北上した。途中黒石の御旅所広場の前を通るとき、そこに薦をかぶせた死骸がいくつも並べられてあるのが見えた。どの死体も腹が膨れ上がっていたので、横からよく見えた。昨夜のできごとのすごさを改めて感じ、身震いする恐怖が体内を走った。そこを早足で通り過ぎた。親戚に着いた時、どっと疲れが吹き出し、体がとろけるような気がした。その日は早めにご馳走になり、風呂に入れてもらい、布団の中でぐっすり寝た。 その後、二学期が始まる前日まで、親戚で世話になっていた。 堤防の斜面に小屋掛けした仮設の住み家がづらりと並んでいた。帰って来たとき、どれが自分の家か見分けがつかなかった。やっと夜露を凌ぐ狭い小屋である。明日から学校が始まるというので、学用品はどこにあるかと親に尋ねた。何もなかった。夏休みの前半に田圃の除草をよく手伝った駄賃として、欲しくてたまらなかった白いセルロイドの筆箱を盆に買ってもらっていた。それがどこに流されたのか発見できなかったと、母がすまなさそうに言った。仕方がないと思いながらもくやしくてたまらなかった。 二学期の始まったのは、九月の終わり頃だったと思う。 そのとき私は、国民学校二年、八歳であった。 この災害でなくなられた多数の方々のご冥福を祈念いたします。 合掌 |
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