『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』 277ページ
「大風水害を体験して」東割 松永美代子
 昭和十七年八月二十七日、それは私の結婚した翌年の出来事でした。その日は朝から風 が強く昼前から大風となり、私は午後居能町迄買い物に出掛けました。(今のように近くにお店もスーパーもなし。)しかし看板は飛ぶし屋根瓦は落ちるし店は雨戸を閉める状態。夜は大風の為電燈はつかず暗い儘で蚊帳に入っておりますと「ゴーゴー」と異様な音が聞こえます。驚き父を起こしました処「こりゃあ大変だ!大水だ!」の声、一同驚き仏間へ入ろうとしたがもう畳はボコボコ浮き上り立っておられない。運良く一間廊下に応接台があったのを幸いにその上に母と二人で上り、刻々の増水(泥水)を肌に感じながら助けをまっていました。主人は急ぎ横の襖をはずし縁の黒い木の角で天井の薄板を必死で破り突き抜いて、母と私を天井裏に押上げ自分は泥水を泳いで屋根に上り、父と共に瓦をはぎ、間もなく屋根瓦を取り外したらしく私共を屋根に引き上げてくれました。家族四人で屋根の上に座ってホッと一安心です。その時暗闇の中から「助けて、助けて」と彼方此方から微かに聞えて来ましたが、水の中からか道路を通る人の声かさっぱり暗くて分かりませんが兎に角、潮水(泥水か)が軒下すれすれまで浸水していることだけ光って見えました。「家が流れることは無いが、万一を考えて土手に上がろう。」と父と主人の誘導で一歩一歩滑らないように進んでいたが、何しろ首から下の衣類は泥水で濡れ、夏とは申しても寒かったこと、寒かったこと。家と土手の間に藁の木小屋が浮かんでいたのを幸いに、その上を伝わって辛うじて土手に這い上がった。「これで本当に命拾いした。」と四人で喜びました。厚東川は濁流で大暴れ、丸太棒が土手に打ち上げられ、うっかり歩けません。薄暗い中を歩き旧橋の郵便局(現在は移転)に避難して隣の岡本さん宅の庭で火を焚いてたくさんの人が囲んで濡れた寝巻を皆で乾かしました。今思えば良くもまあ寝巻の儘で旧橋迄行けたもの!「着のみ着のまま」とはこういう時の言葉でしょう。
 翌朝は「嵐の後の静けさ!」昨日の大水害は嘘の様な上天気で次々に水害見舞客に接し、 昼前に漸くおにぎりを頂き人間らしい正気を取戻す。本当に人の情を喜ばしく有難く感じました。
 翌日からの仕事は潮の合間を見ては舟に乗り(床下迄は何時も浸水している)我が家に入る。新築間も無い我が家の建具、畳、私の結婚衣類一切水浸しの無残な姿を涙して眺めつつも、じっとしてはおられません。女性は家財道具の鍋釜を第一に運び出す。男性は古木材を運び出しては土手の松の木を支えにバラック作り。彼方此方でトンカン、トンカン 金槌の音。立ち並ぶバラックの街。近所助け合い、薪までも分かち合いのご飯炊き。おにぎりの配給も仲良く分け合いながら一緒に食事をした時の美味しさ。家の復旧作業、田んぼの整地又交替での沖の堤防復旧工事。お互いに一日も早く復旧したい一念で一日中を土運び、セメント練りの勤労奉仕。誰一人嫌な顔もせずに出掛けました。私共水害被害者一同よく病気もせずに二ヶ月間近く続いたバラック生活を頑張ってこられた事だ。哀しい中にも愛情あるバラック生活は何時迄も心に残ることでしょう、と追憶の念一入りで。
 あれ以来五十年経ち時代は移り変わっておりますが、現代の若人達にもあの荒廃した水浸しの光景を一同に見て頂き、「災難は忘れた頃にやって来る。」と申しますがあの当時の人達の耐久力、忍耐力、復活力のある社会人になって頂きたく常に念願しております。
『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』より