『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』 147ページ
「昭和十七年の風水害に寄せて」東割 木谷定教
 当時私が、国民小学校二年の八月二十七日の出来事は、五十年経過した今日なお、まざまざと私の脳裏から離れたことはございません。
 亡父が、まだ太平洋戦争に出征する前の年であったことを覚えております。大型台風の通過する当日、午後時間的には、三時過ぎだったのではないかと思われます。遊びに疲れた弟と昼寝をしていた所、突然の暴風の強さに、目が覚め、周囲を見回すと、ガラス戸、襖が飛び始め、手の付けられないような状態で、風速五十メートル位は、あったかもしれません。
 藁葺きの藁、瓦が、田畑一面に乱舞するさまは、想像に絶する感があり、外に出ないよう諭されたのです。一瞬の猶予のできない状況のもとに、私が居ました母屋の雨戸への釘付けは、長屋におられた「松村」さんにお願いし、何とか風を遮りよぎり、夕刻を迎えたのです。
 しばらくして父が会社から帰り、かえる途中厚東川の「新橋」が、歩いて渡れない程暴風雨に見舞われており、大潮で既に波しぶきが堤防を越えている有様と話してくれたのです。風はますます吹き荒れ息する暇もないほど揺れ動く中、母屋での食事はとても無理で少しでも風あたりの少ない長屋におられた「松村」さん家族と一緒に夕飯を始めた途端、停電になったのです。
 そしてまもなく「土手が切れた」という悲壮な声で走り抜ける人の声を耳にしたのです。
 (それが後に「大亀寿一」さんであったことを聞かされました)
 食事に入る前、万が一堤防が決潰したら、長屋の二階へ上がる話も出ていたので、暗がりのなか、私は咄嗟に一番早く二階に上がったことを記憶している。家族皆な長屋の梯子を駆け上ったが、弟「宗祥」がいないと云うので、又私が駆け下りた所、開き戸を大津波が怒涛の如く入った。二階に上がる梯子をやっとの思いで上って見ると弟は、母親と先に上がっていたことが解ったのです。
 皆な無事を喜びあっている中にも、長屋の天井まで、津波が刻々と迫り風が幾分和らいだ頃、父が屋根へ出る様に勧めたのです。周囲は一面海で沖の方にあった家が流されており、父が周囲の家々に呼び合って生存を確認したのです。
 この時の怖さは、未だ忘れることは出来ません。夜明けが近づくにつれて、風雨も収まり、屋根瓦の上にまだ居ました所、近所の「三隅」さんが、舟で迎えに来られ、今の旧橋の堤防へ上ったことを覚えています。
 父が、その頃「警防団」に入っていた関係もあり、潮が引き始めると直ぐ遭難された方々を何人かの皆様と一緒に探索したようです。
 私の住む上組班だけで十七名近い方々が、尊い命を亡くされたのです。
 人間の力で、どうする事も出来ない自然の怖さを改めて知ると共に、すべての物を失い、柱だけになった我が家を見て、茫然と立ち尽くしていた父の姿が思い浮かばれます。
 学校への登下校は、特に東割方面はしばらく休校であったと思っております。第一に着る物が何一つ無い本当に悲惨な生活だったのです。今でも忘れられないのは、神奈川県地方からの方の名前の入った学生服を着て通学したこと、言語に絶するほど感謝の一語に尽きるのです。
 やがて茅で葺いた手製のバラックの仮住いが三ヶ月位続いたと思われます。此の間、地域の方々から勿論、全国から本当に温かい物資の数々に子供心にも、その品物が配給される日が楽しいひとときであったようにも思われます。
 数週間して、通学出来るようになっても、潮の満干のため、舟で通学していたことを良く覚えています。
 今五十年を経過して自然が巻き起こす猛威に今日程の心の準備も無く、その怖さを知らなかったのは事実です。
 災害は、忘れた頃にやってくるかも知れません。
 而し厚南で生まれ、厚南で育った私にとって別の地への移住は考えられません。厚東川を東に海抜〇メートルの地ですが。
 四季のなかの特に、夏に水と親しむ少年時代の厚東川岸辺で小さなシラサや、クマンジョウ(蝦)や、鯉や、ツガニ(蟹)や、潮が満ちて来れば、鯔や、チヌや、セイゴや、たくさんな魚に接する機会のあった川と、又厚南平野での一面黄金色にうれる刈取りの夕映えの風景のなかで、長年歩んできた道程に今生かされている事の喜びを噛み締めつつ・・・・・
 厚南を守り、基礎を築いて頂いた先輩諸氏の皆様に心から感謝申し上げずには居られないのです。
 此の九月二十七日、風水害難の除幕式並びに五十回追悼会が、厳粛に開催される事を知り、実行委員会の皆様方の並々ならぬ御苦労に深謝いたすと共に、風水害で受難されました数多くの皆様の御冥福を心からお祈り申し上げ、災害の想い出の一端を終えます。
『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』より