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昭和十七年の水害は、私が金属マグネシューム株式会社(現宇部化学)に入社二年目の出来事です。当時は常勤朝七時より夕方五時が定時でした。勤務が終わって六時前、帰宅しようと自転車置場に行きますと風が強く、海岸を見ると白波がたっていた。それでも若さで自転車に乗って岩鼻を通り、東割から黒石に至る道を力一杯自転車を踏んで帰って見ると、雨戸は強風のため飛ばされ雨が吹き込み、家族は山手にある親戚に避難していました。私も行って夕食を食べていると、近所の人が、「すぐ前迄水が来た。」と連絡に来られた。出てみるとすぐ前の土手に、木片や家の屋根のような物が水に流され打ち寄せている。よく聞こえないが人の助けを求めるような声もするが、当時の照明といえば自転車につける電池しかなくどうしょうもなかった。数時間たって聞いたが、土手町のところで厚東川の堤防が切れ海水が渦巻き状にすごい勢いで流れ込んだとのこと。その夜は不安を胸に夜の明けるのを待った。あくる朝見ると、目の前には想像もつかなかった凄まじい情景が広がっていて、台風の恐ろしさを痛感しました。 早速、部落総出で救助及び遺体の収容を我を忘れて活動した。又現一九〇号線道路に、潮止め用の土俵を運んだり、漂着物の後片付けを数日間も続けた。 台風の後肉親を捜して歩いておられる家族の方の姿が、今も目の前に浮かんできます。
遠い過ぎ去ったことですが、思い出したことを記して見ました。今後二度とこの様な惨事のないことを祈って終わります。
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