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満10歳になったパソコン
吉田 信夫
1981年もあとわずかで終わろうとしています。アメリカのインテル社が世界最初のマイクロコンピュータMCS-4を発表したのが1971年末ですから、今がちょうどマイコン十周年ということになります。昔から「十(トウ)を越せ」と言われてきましたが、これは「子供というのは十歳頃までは、ただの風邪でも油断してはいけませんよ。しかし十歳を過ぎるとまず一安心です。」ということだと思います。マイコンはまさにその時期を迎えているようです。MCS-4は4ビットでした。すなわち一度に処理できるデータは4ビットということですが、これでも電卓と違って、コンピュータでした。1969年に半導体メーカとして設立されたインテル社は、設立2年後には、金の卵を生んだのです。
私が最初にマイコンに対面したのは、1975年頃でした。当時計数科におられた福田先生を中心にして、1972年に、やはりインテル社から発表された、バイト単位の処理ができるMCS-8というマイコンのキットを組み立てました。何ができるのか不思議に思いながらハンダ付けをしたのを思い出します。子供の頃、写真機の代わりに日光写真を写したり、鉱石ラジオを作って蚊の鳴くようなNHKの放送を聞いたりしました。日光写真や鉱石ラジオには本物のカメラやラジオにない喜びがありました。それは子供の小遣い銭で買える物でも本物の真似ができるということにあったように思います。MCS-4には45種の機械語命令がありました。基本的には全くコンピュータに属するものでしたが、日光写真や鉱石ラジオに似たようなものでした。我々が作った、MCS-8も作ったがよいが、押すべきボタンは一つもなく、途方にくれました。どうしたら動くのだろうと大学の先生方は、真剣に考えました。いろいろ苦労した挙句、借り物のテレタイプを1台接続することで、入出力共に解決しました。要するに、これにはこのような形で使用することを前提とした最低限のモニタプログラムが用意されていたわけです。戦場で頭と胴だけになってしまったジョニーのような、あのコンピュータはどうなったかと時折思うことがあります。
しかし、MCS-4はやはり金の卵でした。東大大型計算センターの石田晴久氏でも、MCS-4のCPUが5ミリ四方であったのはショックだったと書かれています。この5ミリ四方の中には、2200個のトランジスタが作られることが可能なわけですから、マイコンの機能も十歳になった今、単純に考えても、数十倍になっていることが考えられるでしょう。
今ではごく一般的になりましたが、オーディオ用のカセットテープレコーダが外部記憶装置として、家庭用テレビ受像機が出力装置として利用されることを雑誌で知ったときは、驚きでした。高級言語でプログラミングできるようになった今は、もはや日光写真や鉱石ラジオではありません。現在のマイコンは全く大したものなのです。十歳の誕生日を迎えて仕事を与えれば、もう充分やりこなす能力は備わっているのです。
アメリカのある科学者は、現在の集積回路技術は可能限度の半分しか達していないという調査結果を出しています。現在では、光で回路を描いていますが、今や光の波長より小さく描く段階に達し、加速した電子線で描こうとしています。超伝導を利用して、さらに集積度を上げようとしています。このようなハードウエアの進歩は、直接コンピュータの形態に反映されますので、当然マイコンもさらに進歩していくでしょう。その頃になると各種が個性をもつようになり、クールなポール・ニューマンのようなマイコン、野生的でホットなバート・ランカスターのようなマイコン、柔しいジュリー・アンドリュースのようなマイコンといった具合に。そうなると、私は、カルディナーレにしようか、ヘップバーンにしようかと迷うことでしょう。
1981年12月16日発行「コンピュータサークル機関誌 創刊号」より
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